【本の感想】

『坊ちゃん』

 面白い。確かにこれは名作だ。

 先日SIIのRuputerという腕時計型コンピュータが処分価格で売られているのを見つけて、思わず買ってしまった。私はHP200LXを愛用しているので正直言って使い途はあまりないのだけれど、時刻表や住所録、買い物メモなどを入れておくと結構便利そうだし、ゲームなどのフリーソフトも色々揃っている。さすがに広いとは言えない画面に小さなフォントで沢山の文字を表示するテキストビュワーなどもあり、それならと実験的にいくつかテキストデータを入れてみた。その中の一つが、200LXのメモリの片隅で半分忘れられていた、この作品だった。結果としてRuputerの画面ではちょっと本を読む気にはなれないことが判ったのだが、試しにちょっとという感じで冒頭の部分を読み始めてみたら止まらなくなってしまい、以後は200LXの方で読み通した。

 歴史的名作だけあって、さすがの私もTVドラマだのアニメ映画だので何度か観たことがあり、この作品のストーリーなどは大体知っていた。「一般大衆にも読みやすい文学」の始祖であり、「熱血教師ドラマ」の元祖であり、とりわけ主人公のキャラクターは現在に至っても一つの典型として繰り返し使われているということで、つまりは色々と画期的な要素を合わせ持った、歴史的な意義の大きな作品、というのが私の認識だった。しかし、実際に読んでみるとそれだけではなかったようだ。一人称で書かれたぶっきらぼうな文章が、非常に軽妙洒脱でユーモア感覚にあふれ、面白いのだ。これは正直言って、かなり驚いた。ディーン・R・クーンツ氏は『ベストセラー小説の書き方』の中で、一人称で魅力的な文章を書くのは非常に難しいことなので、通常は極力三人称で書くようにと勧めている。一人称の文章が魅力的な作品というとまずレイモンド・チャンドラー氏のフィリップ・マーロウものが思い出されるが、一人称だからこその面白さという点ではこの作品の方が上だと思う。何しろ明治の作品(正確にいつの作品なのか私は知らない)なのでさすがに読みにくい部分もあったりはするのだが、それ以上に読んでいて気持ちのいい文章なのだ。これは驚異的なことなんじゃないかと思う。私は文学のことは全然わからないが、もしかすると夏目漱石氏が文豪と呼ばれる由縁は、実はこの辺にあるのじゃなかろうか、と考えたりもしてしまう。
 もう一つ驚いたことがある。この作品は典型的な勧善懲悪のストーリーなのかと思っていたのだが、全然そうではなかったことだ。主人公は理不尽な「悪人」たちの起こした事件を全く解決していないし、結局は事態を少しも改善していない。客観的に考えると、何かに勝利してすらいない。単に、一つの意趣返しをまんまと成功させて溜飲を下げただけなのだ。また、巷で文学作品におけるヒロインの代名詞のように持ち出されたりする「マドンナ」がちっともヒロインではないどころか、単なるチョイ役だったりする。いやはや、無責任な伝聞といい加減な思い込みというのは、全くあてにならないものだ。
 私は以前から、この作品の『坊ちゃん』というタイトルはどうもそぐわないような気がして、どう考えてもなかなか拭い去れない違和感が気になっていた。でも、実際に読んでみて少しは納得出来たような気がする。この作品全体から溢れているのは、学園ドラマの汗臭さでもなければ勧善懲悪ストーリーの胸のすく感じでもなく、主人公のユーモラスなまでに真っ直ぐな人柄と、その若さの力なのだ。主人公が事件を解決も改善もしない(出来ない)ことも要するに「若さ」の表現の一つであるように思えるし、そう考えるとこの作品のタイトルはやはり『坊ちゃん』なのだろう。

2000/06/15
『坊ちゃん』
夏目漱石 著
CD-ROM版 新潮文庫 明治の文豪 収録

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