【雑文】

『携帯する者たち』

 時刻は23:50。千葉県内から東京方面へ向かう電車の中は煌々と明るく、席はパラパラと埋まっている程度だった。乗客は誰も単独のようで、連れと話をするものもいない。もちろんガタンゴトンという騒音は振動とともに響いているが、私にとっては至って静かなものだ。自宅の最寄り駅に着くまでは約30分。愛用のパームトップPCで溜まっているログデータを読むのには、おあつらえ向きの状況である。
 しばらくすると、ピキピキピキというお馴染みの電子音がけたたましく響いた。ログを読んでいた私はチラリ顔を上げ、JRのアナウンスも「携帯電話はまわりのご迷惑にならないようご使用ください」から「ご使用はご遠慮ください」に変わったという今時の電車の中で呼び出し音を平気で鳴らすバカはどこのどいつだろうと近くを見回してみた。しかし、誰も話している者は見当たらない。おや? と思っていると、またピキピキピキと同じ音。どうやら呼び出し音がインターバルを取っていただけで、まだ呼び出し中だったようだ。よく見ると、私の座っている席から少し離れたところで、バッグから取り出したらしい電話機のアンテナを伸ばしている女がいた。短めの髪をまだらな茶色に染め、顔には人間であることを放棄したような色の口紅とアイシャドウをつけている。別に珍しくもない。しかし、電話機のストラップの根元と長いアンテナの先には大きな犬だか熊だかのマスコットが踊っていて、しかもそれらが呼び出し音に合わせて赤いLEDの色に光っているのには少々驚いた。世の中、色々なセンスの人がいることは、重々承知しているつもりなのだが。
 マスコット女は、元気よく大きな声で楽しそうに話し始めた。当然車内にはよく響く。大した神経をしているな。酔っ払っているんだろうか。少なくとも、呂律が回らないような状態ではなさそうだ。まあ、素面でも大したことを平気でやらかす輩というのはどこにでも沢山いるか…。そんなことを考えつつまたログデータに集中しようと私が努力を開始した時、電車は駅に到着し、私の向かい側の席に一人のオヤジが座った。小柄でガニ股、安物の紺のスーツを着ているが、頭はパンチパーマで顔には色付きの眼鏡。いや、ガニ股というのは単にやたらと足を開いて席に座っているからそう見えるだけかもしれないが。そのオヤジはその姿勢があまりにも似合っていた。信じ難いことに、鼻歌で演歌まで歌っている。大して酒が入っているようにも見えないのに。これでは三流ドラマに出てくるエキストラだ。私はそのあまりにもステレオタイプなオヤジに少々興味を引かれたが、少なくとも関わり合いになりたい相手ではない。やはりログデータを読むことにした。マスコット女の電話は終わったようだ。
 数分後、またピキピキピキという呼び出し音が景気良く響いた。さっきと同じ音だ。私がため息をついて顔を上げると、向こう側にいるマスコット女と私の目の前にいるパンチオヤジが同時に電話を取り出した。こいつは面白い。大マヌケはどっちだ? 呼び出し音がさっきと同じだったから、空振りはオヤジである確率が高そうだな…。などと考えつつ見ていると、マスコット女とパンチオヤジが相次いで声を出した。
「モシモシ?」
「もしもし?」
 さあ、どっちかな?
「あっ、ウンー。今まだでんしゃー。そー。うそー。」
「あっ、どうも、先程はすんませんでした。」
 …あれ?
 ビックリである。なんと、どちらも空振りではなかったのだ。…ということは、なにか? マスコット女とパンチオヤジの電話の呼び出し音は全く同じで、それが同時に、ピッタリ重なって鳴っていたというのか? あんなにけたたましく?
 にわかには信じ難いことだが、実際に目の前(と少し向こう)で起こっている事実に目をつぶるわけには行かない。これが現実なのだ。しかも、たとえ目をつぶったとしても全く効果がないだろうと思えるほどに、パンチオヤジの声は大きかった。これはマスコット女の比ではない。辺りが静かなら楽勝で100mは届きそうな声だ。私はその大声に当てられてというよりも、この状況下でこんな声を張り上げて平気で話をする神経の持ち主が存在するという事実に、頭がクラクラした。マスコット女とパンチオヤジの声で、電車の中はパニック時の幼稚園並みにやかましくなった。
「きゃっははははは! やだもー、そんなんうそー。」
「あー、はい、そうです。…えっ? もしもし? どうも感度悪いですなあー!」
 オヤジがやたらでかい声を張り上げている理由は判ったが、だから状況が改善するというものでもない。もはや私は「やり場のない怒り」をこらえるのに精いっぱいで、ログを読むことは不可能になっていた。ヤワな神経だと笑いたければ笑うがいい。
 やがて、マスコット女とパンチオヤジは相次いで電話を切った。車内の空気は救われた。もちろん私の神経も救われた。私は一つ深呼吸をすると、ログ読みに戻った。もう、何があっても気にせずログを読んでやる。そんなことに意地になってどーするんだという話もあるが、とにかく私はそういう気持ちになっていた。ややあって、向かいの席のオヤジが立ち上がるのが目に入った。どうやら次の駅で降りるようだ。私はホッとした。ログへの集中力が高まった。
 しばらくして、右の方で男女の話し声がすることに気付いた。おや、さっきの駅でカップルが乗ってきたのかな、と思ってふと見ると、そこにいたのはパンチオヤジだった。ドア横の席に座っている若い女の前に立って、話しかけているのだ。なんと、オヤジが席を立ったのはこの女に話しかけるためだったのか。私はもう、驚くのを通り越して笑ってしまいそうになった。話しかけられている女はストレートのワンレンを明るい茶色に染め、わりとオーソドックスな厚化粧をして、ジェットコースターのようなヒールのサンダルを履いていた。心中はよく判らないが、オヤジに話しかけられるとそれなりに愛想良く受け答えしている。意外なことに、受け答えは敬語だ。私の中で、このワンレン女の評価がぐっと上がった。我ながら単純なものだと思うが、これは純粋に主観の問題なので致し方がない。
 パッと見たところでは判らないが、もしワンレン女にパンチオヤジがからんでいるのだとしたら何かしなければいけないかなとも思い、私は思わずこの二人の話に聞き耳を立ててしまった。
「…ええ、友達です。その友達の家に、今私いるもんで。」
「へえー、友達と一緒に住んでるの。なんで?」
「今、家出中だから。」
「家出? なんで家出したの。」
「親とうまく行かなくて。」
「あー、そうなの。いかんなあ。」
 どうも、イマイチ判断がつかない。まあ、そんなものなのかもしれないが。…と、またしてもピキピキピキというあの呼び出し音が、今度は右の方から響いた。オヤジめ、いい加減にしてくれよ、とむかっ腹を立ててそちらを見ると、なんとなんと、電話を取ったのはワンレン女の方だった。どうやらその「友達」からかかって来たらしく、今通過した駅の名前を報告したりしている。パンチオヤジは大人しく電話が終わるのを待っているようだ。おいおい、マジかよ…。
 ピキピキピキ! 向こうでマスコット女が電話を取った。ここ20分ほどで3回目である。
「あっ、うんー。今、もうすぐ○○駅ー。うんーそおー。きゃはははっ! じゃーねー、また電話してねー。」
 そう言って、マスコット女は電話を切った。ワンレン女の電話はまだ続いている。
 うおーっ! なんなんだこれは。一体誰が悪いんだ!?
 私の頭はほとんどパニック状態になったが、次が自分の降りるべき駅であることは覚えていた。私は憮然とした表情で立ち上がり、パンチオヤジが半分ふさいでいる出口へ向かった。オヤジはチラリと私の顔を見上げ、気持ちだけ身体をよけて道をあけた。電車が止まると、私はなぜか殊更にふんぞり返って出口をくぐった。既に日付は変わっていた。
 私は、心地よい夜風の中を、理屈に合わない妙な敗北感を引き連れて家路をたどることになった。あちこちに、何かが、少しずつ、足りないような気がしていた。
(ほぼ100%実話)

1997/06/30

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